人っていつも考えていますよね。

寝ている以外のほとんどの時間を考えている。

この考えているからこそ、自分が存在しているって思えます。

デカルトが言っている「我思う、ゆえに我あり」です。

私がこの言葉を知ったのはちょうど高校の倫理の教科書からなんですが、なぜかこの言葉に「なるほど」という納得感がありました。

この頃って、人はなぜ生きるのだろうかとか、死んだらどうなるのかなとか、考えたところでわからないことを考えてみたりするものです。でも、自分が確かにこの世界にあるのだけは、確かだと思えます。

それは経験的にあると実感できるからです。

ただ、私達は日頃から自分がないということをしょっちゅう経験しています。

例えば、夢中になってスポーツをしている時とか、好きなテレビを見ている時とか、勉強で難しい問題を集中して解いている時とか。

こういう時って、自分があるということを意識してません。で、時間が早く経過してある時ふと、自分に気づいた時には自分があるのですが、自分が何かに熱中している時には、自分がいないのです。

でも、自分がない時には自分がないとは気づいてなくて自分がある時に自分がなかったんだって気づくんです。

先ほどの「我思う、ゆえに我あり」は、

・思考しているから私は確かにある

ですが、思考している時でも、私がない状態もあるってことです。

ですから、デカルトの言葉に疑念が浮かびます。これって間違っているんじゃないの?って。

で、仏教の世界では、自分という個人はないと説いてますよね。

自分を含め万物は、常に変わっていて同じではない。固定した何かというものはなく常に無常です。

でも、確かに生きていると自分が個人として独立して存在している感覚があり確かに自分があるように思えます。

ですから不思議な存在なんです。

でもこれってゲームをしている時のキャラクターに似てます。

ゲームに夢中になっている時、プレイヤーはキャラクターと一体となりまるで、キャラクターであるかのように、自分の生身の身体が動いてしまう経験をしたことはないでしょうか?

また、すごく感動的なドラマや映画などを見ていて、現実の自分がなくなり主人公に感情移入をしてしまったことは、ないでしょうか?

なぜかわかりませんが、私達は意識を集中していくと、集中したものになってしまう性質があるようです。

こう見ていくと、自分という存在自体が”ある存在”が集中している状態ではないかとも思えてきます。

つまり、人という存在自体がゲームのキャラクターであり、プレイヤーは別の”ある存在”ではないかということです。

スピリチュアルで言われる「ワンネス」とか「大いなるすべて」とか「空」、「神」などもたぶん同じことで、ここでいう”ある存在”です。

ここでは、「大いなるすべて」と言うことにしますが、「大いなるすべて」しかないとしたら「自分がない世界」を私という個人が経験してもおかしくは、ありません。

自分がない時には、私は「(私がない)大いなるすべて」であるということです。

ですので、私達が自分が経験していると思っているのは、全く違っていて単に「大いなるすべて」が起こしているだけです。

つまり、私達は存在してないし、経験もしていないってことになります。

このように考えていくと、人生でのあらゆる経験もリラックスして受け入れられるのではないでしょうか。どのような経験でも個人にはどうにもできなくて、単に時間が過ぎて事象が変化していくだけですから、人が何をやっても結果は変わりません。

ですがこれって普通は信じれないかと思います。だから、自分の人生は自分で変えられると思って生きるでしょう。

覚者と言われる悟った人は、一見無気力に見えたりしますが、これは、起きることに身をまかせているだけなのかもしれません。すでに、自分という個人には関心もないでしょうし。

そして、「大いなるすべて」は、ただ在るだけです(たぶん)。